2019.9.29 (日)

第3回

場所:上野~ROOM302(3331 Arts Chiyoda)

美術におけるパフォーマンスについて

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記録係の西島慧子です。
スタディ2、第3回目9月29日(日)は、補講として上野へ彫刻リサーチに出かけたのち、15:00からROOM302で行われました。

今回は、美術的な視点からパフォーマンスを考えるため、ナビゲーターの佐藤慎也によるレクチャーと、ディスカッションが行われました。美術の文脈上にあるパフォーマンス作品の映像や、テート・モダンが制作したパフォーマンス作品などを紹介する映像を共有しつつ、美術のなかでどのようなパフォーマンス作品がつくられてきたのかを「artscape 現代美術用語辞典ver.2.0」にあるキーワードから紹介。また、『美術手帖』「ポスト・パフォーマンス」特集(美術出版社、2018年8月号)内の田中功起さんによる文章や、美術批評家のクレア・ビショップの著書『人工地獄 現代アートと観客の政治学』(フィルムアート社、2016年)を参照して、美術におけるパフォーマンス、観客参加型の作品について掘り下げていきました。

まず、美術のなかにあるパフォーマンスの紹介では、近年の国際芸術祭に出展された作品からアレクサンドラ・ピリチ《Leaking Territories》(2017)やヴェネツィア・ビエンナーレ、リトアニア館の《Sun & Sea(Marina)》(2019)、美術館で展示されたグザビエ・ル・ロワ《Retrospective》などの作品が取り上げられました。これらの作品は、始まりと終わりがはっきりとあるわけではなく、ループ再生のように、一定の内容のパフォーマンスが繰り返し行われ、4時間から8時間ほど続く長時間の作品でした。

次にテート・モダンのパフォーマンスを説明する映像を紹介。「なぜアートがアクティブになったのか?」という問いについて、ヨーゼフ・ボイス、オノ・ヨーコ、イヴ・クライン、フルクサス、ハイレッド・センターなどの作家に触れながら、アイ・ウェイウェイなど政治的なアクションによる作品、美術館のなかでも作品を発表しているダンスカンパニーのローザスや、ダンサーのマース・カニングハムまで言及されていました。

さらに、パフォーマンスアートが美術のなかでどのように行われてきたかについては、「artscape 現代美術用語辞典ver.2.0」から引用して紹介されました。偶然性を尊重した演劇的出来事の「ハプニング」、指示書がある「イヴェント」、「社会彫刻」、観客が作品に対して関わることで成立する「参加型アート」や「リレーショナル・アート」というキーワードについて触れました。

また、2018年に『美術手帖』で特集された「ポスト・パフォーマンス」の田中功起さんの文章も読んでみることに。そこでは、美術におけるパフォーマンスや参加型アートは、アーティスト自身がパフォーマンスするわけではなく、プロではない人々へ“外部委託(アウトソース)”されたアクションで構成されている場合や、別の領域のプロフェッショナルな人々を招聘するなどの「委任されたパフォーマンス」であるため、パフォーマンスの一回性ではなくコンセプチュアルな構成が重要視されることが語られていました。そして、(必ずしもすべてのパフォーマンスに当てはまるわけではないそうですが)「非臨場性」や「平均的なパフォーマンス」、誰にでもできるという点で交換が可能な「再演可能性」の3点に、委任されたパフォーマンスの特徴があるとのことです。

後半では、佐藤からディスカッションのための話題が投げかけられました。美術におけるパフォーマンスが多様化してきた近年、美術館のなかにはパフォーマンスを行うための柔軟な展示空間が必要ではないか? ニューヨーク近代美術館などでも、「グレーボックス」という名称でそのような展示室が計画されているそうです。その場合、観客が介入するなど、インタラクティブな場所が必要となります。また、美術館の側から見ると、ダンスなどのパフォーマンスを、収蔵品の一部としていかにして収めていくのかが今後の課題になっていくのでは、といったことが挙げられました。

そして最後に、パフォーマンスにおいて、演劇と美術の違いは何か?という問いかけ。佐藤からは、 フェスティバル/トーキョーのディレクターである長島確さんから聞いた「演劇は嘘で、美術は本物」という話を紹介。美術は本物だから保管される。美術において、演劇よりダンスが好まれるのは、ダンスが本物だからかもしれない。そして、これまではアーティストには物質に対する熟練された技術が要求されてきましたが、物質に対して脱技術化することによって、関係性などの非物質的なことに対する技術がいまでは必要とされているのではないか、などの指摘も。これからの動きについて、考えるポイントになりました。

さて、ディスカッションでは、テート・モダンから出版されている『パフォーマンス・イン・コンテンポラリーアート』という本において、それぞれの章が「I (個人。行為が作品になる)、We(社会。関係性が作品になる)、It(物質。自分自身が彫刻になる)」に分かれていることが話題になりました。「It は作家によって大事なのでは。美術は自分と物質という考えが根本的にあるのではないかと思う」「ダンスはI? 演劇はWeなのか?」と議論が交わされました。

また、「ハプニングなど、突発性やライブ性のあるものに対して、すぐに文脈を捉えることは難しいのではないか? 文脈を担保できるのか、という点が美術的な感覚のような気がする」

「美術系のパフォーマンスの時間のなかでは、平均化された感じがするという部分に同感。平均的に見ざるを得ない作品が最近は多い。彫刻も長い時間で平均化されている」といった意見が出ました。

「美術のなかでのパフォーマンスをどのように見ていったら良いのか? 技術的なことは説明でわかったけれど、参加型アートは実際に見ないとわからない」といった意見もあり、今後実際に見学に行くことも検討することになりました。

Text=西島慧子