2019.10.21(月)

第4回

場所:ROOM302(3331 Arts Chiyoda)

ストリートアートから考える“公共空間”

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記録係の堀切梨奈子です。スタディ2、第4回目は10月21日(月)19:00から、ROOM302で行われました。

今回は、毛利嘉孝さん(東京藝術大学教授・社会学者)をゲストに招き、東京の防潮扉でみつかった「バンクシーの作品らしきネズミの絵」をきっかけとしたストリートアートに関するお話から、“公共空間”について思いをめぐらせるようなレクチャーをしていただきました。

ストリートアートが生まれるきっかけとなったグラフィティには、「都市文化・都市空間への介入」と「新しい文化運動」というふたつの側面があるそうです。ヨーロッパやアメリカにおいて公共空間や都市の景観は、所有者ではなく、歴史的背景や住人によって決定されていく側面が強い。にもかかわらず、そこに関与できていなかった1970年代の黒人たちは、住人たちが見たいものとして、グラフィティを公共空間に描くことで問題提起を行い、それを文化として力ずくで認めさせてきたのです。

また、グラフィティには他人が描いたものに上書きを繰り返す「バトル」という慣習があり、公共空間に描かれた作品は絶えず変化していく可能性を孕んでいることや、バンクシーは行政との関係が悪化しても、住民たちから強い支持を受けて公共空間に作品をつくり続けている事例があることなどが紹介されました。

さて、東京の公共空間でみつかった「バンクシーの作品らしきネズミの絵」。現在では、鉄の防潮扉ごと取り外され、管理者である東京都が公開しないと見ることができないものになっているそうです。レクチャーの終盤にはそんなエピソードから、日本国憲法における、「表現の自由(第21条)」と「財産権(第29条)」というふたつの権利に話が及びました。バンクシーのようなイリーガルな作品は、路上や学校、どこに描こうとも「表現の自由」は担保される一方、それによって、誰かの「財産権」を犯してしまう場合がある。ふたつの権利にヒエラルキーは存在しないけれど、一方が優先されると他方が抑圧されてしまう状況にあります。現在の日本では、「財産権」が強く守られており、ヨーロッパなどに比べると、まちなかのグラフィティ(落書き)はとても少ない。毛利さんからは、「そうであることを手放しに喜んでしまうことは、無意識のうちに支配者や管理者側の美学を内面化してしまっているのではないか」という問いも投げかけられました。

その後のディスカッションでは、「まちの再開発に賃貸住宅の住人が強く反対しても、所有者でないため力が及ばぬことが多い」「所有者権限で歴史的建造物が壊されてしまうこともある」といった日本の社会における所有に関するエピソードや、「みんなのためにつくられたはずなのに、誰にも使われず綺麗なままの『死んだ公共建築』がたくさんある」「みんなのモノが、誰かのモノになることを嫌がっているきらいはないだろうか」「日本では、バトルで上書きされ続ける壁ではなく、真っ白なままの壁を選ぶ傾向にあるのでは」といった、公共や公共施設に対する意識について意見が交わされました。

ほかにも「誰かが“みんな”を主張するとき、その“みんな”のなかに主張している本人は含まれているのだろうか」「公共の所有者は“みんな”であり、それをたまたま、今は行政が管理している、という意識を持った方がよいかもしれない」「災害大国でモノが残らないからか、所有しているモノ自体への執着よりも、所有しているという事実に執着しているように感じる」「表現の規制としては、法的ではなく、道徳的な規制を行った方がよいのでは」といった公共空間に関する議論が行われ、“みんな”“所有”というキーワードも見えてきました。

最後には、「グラフィティと同じように公共空間に存在する屋外彫刻でバトルはできるのか」「ドカベンの彫刻でケツバットをするような茶化し方は、公共彫刻の上書きと捉えられるだろうか」「彫刻にお友達を増やしたり、物語を付け足すことで上書きすることはできないか」といったアイデアも。 

毛利さん曰く、文化的イノベーションは起きにくいけれど、グレーゾーンを上手に使ってきた日本。わたしたちは“みんな”の“公共空間”にどう向き合っていくのだろうか。わたしたちには“公共空間”を“所有”している意識はあるのだろうか。といった、大事なテーマを得たスタディだったように思います。

次回はみんなで小田原江之浦測候所まで足を伸ばし、ティノ・セーガルのパフォーマンスを観にいきます。

Text=堀切梨奈子