2020.12.20 (日)

第7回

場所:ROOM302(3331 Arts Chiyoda)

既存の「自己紹介」の手前にあるものとは?

1/1

2020年12月20日 Arts Chiyoda3331 ROOM302とオンラインビデオツール「Zoom」のどちらかにメンバーそれぞれが集った。ゲストは美術作家の関川航平さん。「このスタディのテーマ『共在する身体と思考を巡って』と関川さんが持つ視点や創作の手つきに接点があるのではないか」と考えたナビゲーターチームが関川さんに相談し、実現した今回。

それぞれの名前を伝え、挨拶をする。肩書や役割、これまでの実績などをわかりやすく簡潔に伝えることが求められる。そんな「自己紹介」の既存の形式とは違う形に立ち止まり「出会うとはなにか」について体感して受け取ることができる時間だった。

美術作家の関川航平さん

当日の出来事を記録する方法として、テキストで要約したり、あるいは全文書き起こししたりするのは有効ではないと考えた。そのため当初は関川さんから話された内容やメンバーと行われたやりとりをパフォーマンスととらえ上演台本の形式を一度選択。そうすることで、意味情報のみではなく、具体的な場で発話があったことも含めて想定して、この記事を読んでいる方が想像してくれると考えた。

しかし、関川さんに上演台本形式の記録をお渡ししたところ、筆者が作成した記録では、当日関川さんとメンバーのやりとりの中にあった意味情報以外のニュアンスが抜け落ちてしまっているとご指摘いただいた。そのため再度すり合わせをした上で、今回の実施と上演台本への応答という形で、関川さんご自身に、実施の意図や当日話された内容や感覚に近いものを執筆いただいた。

■関川さんから提供いただいたテキスト

今回のスタディでは、自己紹介をせず、ぼくとメンバーがまだお互いに知り合わないうちに、あえて一方的にお話しできればと思っていました。その話ぶりを、目の前に起こる一つの出来事だと思って、ただ聞いたり、眺めたり、別のことを考えたり、それぞれ勝手に過ごしてもらえれば良いかなと、この日のぼくは、このスタディのメンバーではない、外からやってきた人という役割を担って、帰ろうと思っていました。


そもそも「自分」というものは、「自己紹介」あるいはそれに準ずる必要に迫られたときにようやく規定するものであって、それらの要請がないところではもっとぼんやりと輪郭も意識されないまま過ごしていて、そのぼんやりとした意識こそが様々なものと出会う現場なのだとすれば、今回は「自己紹介」というフォーマットを通らずに、もっと別のルートを通りたいなと思っていて、「私は、寒い夜にコートを羽織ってコンビニまで煙草を買いに行って会計を済ませてコンビニの外に出ると右手に持った煙草の箱が少しあたたかいと感じたことがあって、考えた、きっともっと前の夜に、店の前の駐車場に停まったトラックの荷台から下ろしたコンテナをジャンパーを着たドライバーが台車に載せて運び入れる自動ドアが開いて『お疲れ様でーす』蛍光灯の明るい店内を進み台車を当てて両開きのドアを押し開けて入ったバックヤードに置かれた段ボールの中に入って外から運ばれて来てまだ冷たいこの箱を夜勤に入ったアルバイトがレジの後ろの棚の番号が書かれたレーンに一箱ずつ収めてその銘柄の名前や番号を指定して買う人が現れたら手前から取り出すたびカシャンとバネに押し出されて一箱分ずつレーンの手前にせり出してきていよいよ一番手前までくる、までの、しばらくの期間のうちに箱の中の温度はコンビニの室内と同じ温度になっていった、あたたまっていた、それを外に連れ出して、今まだわずかにあたたかかった、けど一瞬で冷たくなるんだろうなってそんなことを考えている、家に向かって歩いている、手に持っている煙草の箱を握り直せばプラスチックのフィルムが覆っている、それがパリパリしている、手のひらの中におさまっている、書いてある文字読めばそれはホープ・スーパーライトと読んでいる、もう別にあたたかくもないその箱を、それらの通り過ぎていった事実を、起こった一瞬を、このように〈なんとかして喋ろう〉とすることが、名前をフルネームで伝えるより前に、あった方がいいと思ったんです。


バタイユの『眼球譚〔初稿〕』から短い引用をしたいと思います。この作品は二部構成になっていて、第一部「物語」では主人公の私とシモーヌという女性の物語が、第二部「暗合」では、自身の体験と「物語」がどのように“暗合”しているかを綴っています。そのなかでバタイユのさまざまな過去の想い出が語られるのですが、一番最後には、正気を失った母親が夜中に行方をくらまし、外へ探しにいくと入水自殺に失敗して川から引き上げてくる姿を目撃したエピソードが書かれます。

それから暫くして、彼女はまた姿をくらました、こんどは夜中に小川に沿って、身を投げたかもしれないあたりを、私は隈なく捜し廻った。沼地を横切って暗がりを駆けずり廻っているうちに、ぱったり彼女と向かい合った。彼女は腰まで濡れ、スカートは川の水の小便を垂らしていた。自分で川からはい上がってきたのだ。冬のことで水は凍てつき、それに身投げをするには浅すぎたのだ。

そんなショッキングな経験を語ったすぐ後に、彼はこのように続けます。

この種の想い出に私はながく煩わされるということはない、何故なら私にとっててこれらはとっくに感動的性格を失ってしまっているからだ。一見見分けがたいまでに変形させた後でなければ、そしてその歪曲の間にそれらが最も猥雑な意味を帯びるに到った場合しか、それらに私は生命を甦らせることができなくなってしまったのだ。
『眼球譚〔初稿〕』著:G・バタイユ 訳:生田耕作 河出文庫

ここで語られている「変形」というプロセスは、人が経験とどのように付き合っていくかの普遍的な例を表していると思います。経験された〈なにか〉はさまざまな反応を即席に引き起こしますが、時にわたしたちは単なる反応の域を出ようと試みることがあります。この試みがなされるはじまりにおいては、〈なにか〉はまだ特定の目的意識——例えば作品をつくろうとする意識——に従事することのない状態でその人のなかに滞留していて、おそらくはまだ「感動的性格」を有しています。ここで言う〈なにか〉というものの一例として、先ほどの煙草の箱のことがあります。私にとって煙草の箱にまつわる〈なにか〉は単なる反応の域を超えてどうにかしたいと思ううずきを生んでいますが、このうずきを観察したのちに「じゃあそれを作品にする」という素朴なルートを想定してしまってはバタイユの「変形」のプロセスの在りかが、その切なさが分からなくなってしまいます。バタイユの「一見見分けがたいまでに変形」しようとする手つきと、そしてそうしなければ「生命を蘇らせることができな」いと感じている逼迫感との組み合わせは、狭い意味での「作品にする」ということよりも、もっと広く訴えてくるものがあると感じます。

煙草の箱にまつわる〈なにか〉は、出来事そのものも、それに付随した想像もとりたてて創造的なわけではないですが、なぜだか、私にとっては日々の生活から一線を画した重要さがあると感じていて、ただ一方では、日々の生活に晒されれば吹き飛んでしまうくらい全く重要じゃないと感じています。この相反する二面のうち「重要だ」と感じているほうの心は、「私」に去来したあらゆる気持ちが、「私」にさえ決して長くとどまってはくれないことを、とてもさびしく思っています。手に握った煙草の箱があたたかい/外が寒くて歩いている/コートが肩にかかっている/家までの道々/「私」を取り囲んでいた四次元の広がり。それらの「私にとって」本当に起こったことを重要だと思っているからこそ、共有したいとあせり、うずきを鎮めるために、ついつい通りの良い言葉に変えてしてしまう。そうして〈なにか〉はみるみるうちにエピソードというものに、人に「伝わる」ものに矮小化してしまう。その口惜しさをバタイユの言葉で言い換えれば「生命を蘇らせることができなくなってしまった」ということなんじゃないか。

ただ、ここにもう一側面の「重要じゃない」と感じている心が同時にあることにより、〈なにか〉は決して誰にでも共通して感動的というわけではないという意識、あるいは「私」にとってさえも刻々と感動的ではなくなっていってるという冷え冷えとした出発点に立つことにより、単なる共有ではない方法を求めることになり、そこに「変形」というプロセスが呼び込まれるのだと思います。ありのままを伝えようとしたり客観的に描写しようと努めるのではなくて、むしろ「歪曲」させる。歪曲された〈なにか〉は——本人が体験した出来事そのものは——他の人からも「見分けがた」くなっていく。私がバタイユの露悪的なほどエロティックに歪曲させられた後に現れる表現を通して見ているものは、物語のあらすじでもなければ、ましてやありのままの〈なにか〉でもなく、バタイユの「変形」の手つきやそこに使われる筋肉の躍動であり、変形の作法としてのエロティシズムを見ています。

バタイユは「一見見分けがたいまでに変形させ」なければ「それらに私は生命を蘇らせることができなくなってしまったのだ」と言いますが、そのような意識の前提となっている「生命を甦らせる」必要というものは彼自身がみずから引き受けたことであり、この必要性・・・を抱えているということ、そこに「生命を蘇らせる」必要があるように感じる・・・・・・・・・・・ということが、この「変形」というプロセスの在りかであり、バタイユが生きる切なさだと感じます。


「生命を甦らせる」ということに関連して考えさせられたのは、横尾忠則さんの『タマ、帰っておいで』という展示で、これがとっても良かったのです。横尾さんの飼っていたタマという愛猫が亡くなってから描き溜められていったタマの絵とタマにまつわる日記を纏めた同タイトルの本が出版されて、その原画展ということで開催されていました。展示を観に行く前は先入観を持ってしまっていて、先ほどから言い方でいえば〈なにか=本人が体験した出来事〉のありのままの状態、「タマの死についてのドキュメンタリー」を観ることになるのではないかという気持ちがありました。たとえれば、わざわざ知らない猫の葬式に出席してしまったようなバツの悪さを味わうんじゃないかと思っていました。

しかし、先入観に反して、会場に並んでいる絵はどれも構図・配色・筆致など、絵作りとしての判断が行き渡っていて、意外なほどに「絵」だと感じました。おそらくは写真などを参照しながら描かれたであろうタマの姿は、画面のなかでは構成要素のひとつとしてシビアに検討されていて、「絵のタマ」になっていました。当たり前のことですが「絵のタマ」は「タマ」ではありません。この「タマではない」ということ、これがとても重要なことだと感じました。

この種の想い出に私はながく煩わされるということはない、何故なら私にとっててこれらはとっくに感動的性格を失ってしまっているからだ。一見見分けがたいまでに変形させた後でなければ、そしてその歪曲の間にそれらが最も猥雑な意味を帯びるに到った場合しか、それらに私は生命を甦らせることができなくなってしまったのだ。

さきほどバタイユの引用の「想い出」という箇所を、たとえば「タマの写真」と読み変えて考えてみたいと思います。果たしてタマの写真自体の「感動的性格」が失われてしまっているかはさておき、写真に記録された状態では満ち足りなくなっているなにかが「変形」を必要としはじめるのだろうと。

写真と絵、それぞれで記された「タマ」を考えたときに、それぞれの「タマ」が帯びている時制が異なると思いました。「写真のタマ」の場合、かなり精度の高いタマのサインとしてタマを示しているので、今もタマを想起させるけれど、同時にそれ自体は常に「過去のタマ」であって、全く、今、タマではないことを突きつけてくる。一方「絵のタマ」は、写真と同様にタマそのものではなく「タマを示すもの」でありながら、絵を描いている間の「タマを示そうとする」時間が内包されることによって、そこでの「絵のタマ」が持ち始める時制の幅は現在にも足をかけている。

タマが死んでしまってますますこの時制の差は切実さを増します。写真の場合を考えると、そこには「もういないタマ/かつていたタマ」しか写っていない。そしてもうタマがいなくなってしまっては「写真のタマ」ですら今は・・もう写真に写すことができない。しかし絵においては、もういないタマであっても「絵のタマ」としてだったら今も・・まだ描くことができる。

「写真のタマ」/「絵のタマ」では、タマのサインとしてあらわれる際の時制と方向に違いがあって、写真は「過去に」「タマから」発せられた光であり、それが起こる表面で私は「目を開いている(黙読している)」のに対し、絵は「現在に」「私から」選ばれた光(色)であり、それが起こる表面で私は「口を開いている(音読している)」。その意味で「絵のタマ」は描く行為が行われている時間に甦っていて、『タマ、帰っておいで』という言葉は、「もういないタマ」がいた過去の時制に向かって叶わない呼びかけとして発せられているのではなく、絵を描くという行為の行われている現在の時制に向かって発せられていて、それは本当に(!)呼びかけとして機能している!

すごい!これが絵を描くってことか!

絵を描くことが横尾さんの「変形」であり、絵としての美的判断は「変形」の作法として働いているのだと感じました。はじめに「意外なほど絵だ」と感じた理由も、そこに描かれいているタマが、ドキュメンタリーな作法ではなく絵的な作法によって「変形」していることを強く感じたからでした。もし展示されたものがタマについての精細なドキュメントだったとしたら、「もういないタマ」をよく知ることはできたかもしれない。それに比べて、絵に描かれたタマは「もういないタマ」を知るためのドキュメントとしては精度は低い。前者が、均一なグリッド状のフィルターが重なっていくイメージなのに対し、後者は目は荒いけれどランダムな網目をもったフィルターが何層にも重なるようなイメージで、ドキュメント的な集積は重ね続けてもどこかで網目が一致してしまい結果としてそれ以上緊密になりきれないところを、絵のフィルターの集積は重ねれば重ねるだけ目が詰まってゆき、それがタマになっていくのを願っているような印象がありました。

「絵のタマ」をつくるための筆の跡には「幅」があることも重要だと思いました。筆の幅でもっていくら画面を撫でつけても、本物のタマの毛並みになることはない、写実の度合いとは関係なく、そこに描き現れてくるものは決して本物のタマではない。筆の幅が生む目の荒さがある以上、描いても描いてもできるのはいつまでも「絵のタマ」であり、また同時にその目の荒さがあることがいつまでも描く(何枚も描く)ということを要求しているのかもしれない。この要求を引き受けることは、バタイユが「生命を甦らせる」ことを引き受けていたこと、そこに必要があると感じていたことと相似だと思います。筆の幅が「絵のタマ」と本物のタマを絶対に隔てるものでありながら、そのやりきれない筆の幅こそが画面と観る者の間でのスペクトルとなり、そこにタマは甦るのだと感じました。


続いて「柵理論」についての話をしようと思う。これは最近俺が考え出した思考モデルだ。

モノの捉え方を表す比喩表現として、「解像度が高い/低い」という言い方や、先にも出てきた「網目が細かい/荒い」といった言い方があるが、これらの表現で用いられる「解像度」「網目」のイメージはそれぞれ現実の画像処理ソフトの操作や現実の網の使用方法に由来していて、それらの現実でなじみのある「操作」をモノの捉え方にも当てはめて考えることによって、形而上の出来事を理解する助けになっている。ただ一方で、比喩表現が理解の助けになりすぎることへの危惧もある。当てはめた現実由来の「操作」が現実に持っている限界によって、モノの捉え方そのものへの考察も同様に限界を持ってしまい、比喩表現がモノの捉え方を形作るという転倒が起きてしまう。

たとえば「解像度」・「網目」の比喩表現に共通した前提として、「受け取るもの」(「解像度」だったら画像、「網目」だったら通過するもの)自体には変化がなく、それに対する「受け取りかた」の精粗によってのみ認識も変化することがあげられる。こうした前提がモノの捉え方に逆輸入されると、「受け取るもの」は「受け取りかた」に関係なくはじめからマスターとして存在することになってしまう。果たして実際の認識はそんな仕組みだろうか。ただ、ややこしいけれど、逆輸入によって認識が形成されるという転倒それ自体は、実際の認識の形成され方をとてもよく表していると言えて、この転倒が「言葉(比喩)→認識」の復路で起こるものだとすれば、「認識→言葉」の往路も含めた把握、あるいは往路・復路の区別なく「認識⇄言葉」の相関関係をひと掴みにしようとするのが〈柵〉の考えの出発点になる。

〈柵〉について考えるにあたり、俺たちがなにかを対象化し把握するときに行っている操作を「分割」と「連続」という観点から分解してみる。たとえば時間が把握されるとき、それは◯秒・◯分・◯時間・◯日・◯年…といった分割された形で対象化される。空間が把握されるとき壁・柱・屋根…などの構成要素で分割されたり、気持ちが把握されるとき形容詞によって分割された形になっている。しかし一方で、時間や空間などを区切れのない連続したものとして受け入れている感覚もある。さらにはすでに分割されているものを連続したものとして捉えることさえある。虹の色数が文化圏によって3色に見えていたり7色に見えていたりと認識に幅があることは有名だが、そこから「実際の虹は、区切れのないグラデーションだ(そもそも受け取るものは連続しているものだ)」と考えることも、「実際に◯色に見えているならば、それが本当なんだ(そもそも分割することが受け取ることだ)」と考えることも、「解像度」の比喩で形成されるような認識の域を出ない。連続しているものを分割しようとすること、反対に分割されているものを連続させようとすることが同時に起こることを認められるモデルが必要だと思う。そこで考え出したのが、分割と連続を統合する〈カウント〉という状態だ。

時間を秒数という単位によって1・2・3・4・5と区切って対象化することは「分割」だが、『1・2・3・4・5…』とカウントする行為には「分割」と「連続」が同時に含まれていると言える。〈柵〉は現実の柵由来で出来ているのではなく、この〈カウント〉という状態によって出来ていると考える。〈柵〉の間隔は〈カウント〉に採用している単位で決まり、どんな単位を採用するかによってその間隔は伸び縮みする。そこでは「秒」や「メートル」などの既存のものだけではなく、複合的な言葉や、タマを描く「筆の幅」のようなものも〈柵〉の間隔を決める単位として捉えることができるとする。

〈柵〉はさまざまなパースペクティブから考えることが可能だが、〈柵〉を観測する人からのパースでみたとき(観測者の目から光が出てるようなイメージで考えたとき)には、観測者自身が採用している単位によって組織される〈柵〉上に、柵にあたって跳ね返ってくる(認識できる)部分と、柵の間をすり抜けてしまう(認識できない)部分が生まれる。このことが「解像度」や「網目」の比喩と異なる部分であり、重要なのは〈柵〉の間をすり抜けてしまう部分は「認識こそできないが、そこには存在する(アカウントがある)」のではなく、その〈柵〉においては「存在しない(アカウントがない)」ということだ。


ここで、ちあきなおみの『喝采』の歌い方を参照したいと思います。
『喝采』は、〈柵〉の間が死の領域であることを示唆しているように感じます。

A いつものように幕が開き
  恋の歌うたうわたしに
  届いた報らせは 黒いふちどりがありました
B あれは三年前 止めるアナタ駅に残し
  動き始めた汽車に ひとり飛び乗った
A’ ひなびた街の昼下がり
  教会のまえにたたずみ
  喪服のわたしは 祈る言葉さえ 失くしてた

A /A’メロは基本的には歌詞のはじまりと拍のはじまりは揃っているのですが、「届いた報らせ」の「と」と、「喪服のわたしは」の「も」の歌い出しは、ほんのわずかシンコペーション気味に歌われていて、拍のはじまりよりも前にスリップしています。つまり拍による分割を踏み外しているのです。その踏み外した歌い出しで伝えられる歌詞の内容というのが、前者は黒い縁取りのある報せ、つまり訃報が届いたことが、後者は葬式に参列したのであろう喪服を着たわたしの姿という、どちらも死にまつわるイメージです。

この歌い方と〈柵〉を重ねて考えてみると、拍に揃う部分は柵に跳ね返る「認識できる部分」、拍を踏み外すと柵の間をすり抜ける「認識できない部分」となり、柵の間に踏み外すことは認識外の領域へとすり抜けていくことで、存在がなくなることであり、この〈カウント〉における死だとも言えます。だからこそ、歌の節まわしとしては、死の香りのする領域へほんの少しスリップするのがセクシーなんだと思います。
蛇足ですが、Bメロの「あれは三年前~」から始まる回想シーンは「止める」「アナタ」「動き」「ひとり」すべての歌い出しが裏拍(柵と柵の間のど真ん中)からになっていて、漫画で言うところの回想シーンの枠外が黒く縁取られて現在のシーンとの区別がつくのと同じような効果を得ています。A’メロ「ひなびた街の昼下がり~」と物語が現在の時制に戻ってくると、歌い出しはまた拍のはじまりに戻ります。


ところで、シュレーディンガーの猫という思考実験があるけどさ、箱の外からだと猫が生きているのか死んでいるのかわからないってやつ。気に食わないね、だったら一緒に箱の中に入って箱ごとズルズルと一緒に歩けばいいんじゃないかと思ったよ。そうすれば、自分も含めて生きているか死んでるかわからないけど、そんなことはどうでもよくて、なによりもまずその猫と一緒に歩くことができる。とにかく箱の中に入って箱ごと歩いちゃえば猫も歩いてることになるってことが良い。そこで使われる箱の素材を〈柵〉で出来ていると考えることはできないだろうか。箱の中から〈柵〉越しに外を見る時には、先ほどまでの考え方と逆転し、柵は視界を遮るものになって、柵と柵の間こそが観測可能なものになる。そういったパースペクティブを設定することも〈柵〉をモデルとすればこそ可能になるんじゃないか。


すべて言葉遊びのようですが、ぼくにとって〈柵〉を使って考えることは、なにかの「生命を甦らせる」必要からきています。
はじめに何を言いたかったのか忘れてしまいましたが、ここで終わります、関川航平と申します。


メンバーそれぞれは第7回を振り返り、次のように日誌を残している。

「関川さんの朝の身体の観察、オハッド・ナハリン(イスラエルの演出家)のダンスメソッドを聞いているようでありありと様子が伝わってくる&身体ごとその温度が伝わってくるようで、ああこれはもうウォームアップされてるな……と感じ中。そしてやっぱり、舞台の2F席にいる感覚で、今日はパフォーマンス作品を観賞している(けど、アクセスしようとおもえばアクセスできる)環境が面白い」

「敢えて出会わない、敢えて対話しない、ちょっとでも違ったら嫌いになってしまいそうな状況なのにと思いながら、ついつい惹きこまれてしまう空気がまた、良い時間でした。延々と柵理論の話をしつつ、関川さん自身の思考の流れは明らかに柵的に積み上がるような形をとっていなくて、ねじれや足軽?のようなシナプスの連鎖?な気がするのにな〜と思いながら。私自身は、コミュニケーションや身体・言語について考えていく上でどうしてもそのテーマゆえに他者との関わりを必要とする、もしくは他者の内言語を探究していく試みがあり、研究開発的にならざるを得ないのだけれど、対話や実験と通しながら、ひとりに没頭する関川さんの内言語を皆で猛ダッシュしたような3時間はなんというか終わったー!みたいな爽快感があって、それでいてなんだったんだろう、と笑えてしまう感じもあり。タバコの箱のような時間でした、あたたかい」

「関川さんが話そうとしたこと、話しているときの考え込む仕草や表情に、自分が関川さんの身体を操作しているかのような同一感を覚えて、真似したくなった。考えている、という動作がこっちに伝わってきたのかもしれない。理論よりも、関川さん感みたいなものが体に残っている。『グ、イッ!』とか『ゾクゾクゾクゾクッ』とか『うーん』とか『うん?』みたいな」

「去年の手帳を見返していたら、『コンビニのホープ』というメモが。日付を見て、関川さんの話だ!と思い出したものの、全く事情を知らない他者が見たら、謎は解明されないのだろうと思った。『コンビニのホープ』。コンビニの希望。コンビニの期待の星。ホープという名のコンビニ。コンビニの暖かさを帯びた煙草の箱、ということからは遠い。こんな風にプライベートで書いたメモや日記を誤読されつつ、研究が進む過去の人々がそこそこいるのではないかと思った」

既存の自己紹介をしてしまうことで、どうしても出会ってしまう。そのことで見えづらくなっている側面、いや明確に側面とは言えない曖昧な存在があること。既存の形式とは違う形で立ち止まり「共に在る」ことで、いきなり出会うことなく、確かにあるまだわからないそれらを触れることができる。今回身をもって体感したからこそ、メンバーそれぞれが、それぞれの場所で「共に在る」ための手段を模索するヒントになっているようだった。

Text=木村和博



JASRAC許諾第 J210629966号