2020.12.6 (日)

第6回

場所:ROOM302(3331 Arts Chiyoda)

翻訳する身体と思考を巡って

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写真左より 舞台人・舞台手話通訳者・手話通訳者の田中結夏さん、その隣が 劇作家・演出家・舞台手話通訳家の米内山陽子さん
当日は、ナビゲーターの南雲麻衣がグラフィックレコーディングも行った。手話通訳の動きが見えるように、透明なアクリル板での記録を試みた。

「私たちは何を伝え合っているのだろうか、伝えるとは何か」

第6回のゲストは、劇作家・演出家・舞台手話通訳家の米内山陽子さんと、舞台人・舞台手話通訳者・手話通訳者の田中結夏さん。手話通訳という役割でスタディ1に併走しているおふたりと共に、通訳する身体と思考にまつわる座談会を行った。

この日の手話通訳担当には、石川阿さん、瀧尾陽太さんが同席。ナビゲーターの和田夏実から「ゲストそれぞれの身体に合うと思う通訳者を呼んでもらいました」と共有があり、座談会ははじまった。

■手話通訳をはじめたきっかけ

写真左より 舞台人・舞台手話通訳者・手話通訳者の田中結夏さん、その隣が 劇作家・演出家・舞台手話通訳家の米内山陽子さん

和田:手話通訳をはじめたきっかけについてお伺いさせてください。

米内山:両親がろう者で、生まれたときから音声言語の日本語と同じくらい手話がそばにあったんです。親は聴者である私に通訳を強要することはありませんでしたが、幼い頃から手話ができました。

はじめて通訳らしいことをしたのは、 聴者の親戚から「ご両親に〇〇って伝えておいて」と言われ、伝えたときだったと思います。それ以降もたまにそういうことがありましたが、仕事として手話通訳をしようとは考えていませんでした。

本格的に通訳に携わりはじめたのは26歳のとき、ある演劇公演の稽古場の手話通訳の依頼をもらったんです。もともと手話通訳という関わり方ではない形で演劇活動はしていたのですが、通訳という役割において、私でなければきできないことがあるのではないかと思い、そこから舞台手話通訳家として仕事をはじめました。

田中:大学卒業後に演劇の学校に進んだのですが、そこでろう者の同級生と出会ったのがきっかけです。その人と関わるなかで、手から溢れ出る手話という言語がとても格好いいと思って。そこから手話を本気で学ぼうと思いました。

はじめて通訳的なことを担当したのは、手話をはじめて1年ぐらい経った頃です。コアメンバーがろう者の劇団に、私は演出助手で携わっていました。演出家もろう者だったので、聴者とのコミュニケーションのときにすこし通訳をやりました。すると拙いながらにもすごく喜ばれて、それが嬉しかったんです。

そこから誰かに「ありがとう」って言ってもらえるように、仕事としてやりたいと思うようになり、学びながらいまに至っています。

■意味情報からこぼれ落ちるものを伝える難しさ

当日は、ナビゲーターの南雲麻衣がグラフィックレコーディングも行った。手話通訳の動きが見えるように、透明なアクリル板での記録を試みた。

和田:実際にさまざまな現場で通訳を経験していると思うのですが、通訳していてどんなことに難しさを感じていますか?

米内山:その人らしさみたいなのを伝えるのが難しいです。意味情報を伝えることは、多少こぼれ落ちたりすることもあるけれど、ある程度は伝えられる。

でもそこから外れる、ノンバーバルなこと、例えば、言葉に詰まる感じとか、意味情報の周りにあるニュアンスとかもやもやとかを伝えるのが難しい。本来は、そういった部分も含めてその人だと思うし、そこが伝わらないと話に色や肉とかがつかない感じがあります。

言葉遣いひとつ、たとえば「(仕事を)巻き取ります」「引き取ります」でも、ちょっとした違いが生まれるじゃないですか。どちらも仕事の引継ぎという意味では同じかもしれないけれど、「巻き取る」感じと「引き取る」感じは違う。そのニュアンスまでしっかり通訳したいと思うんです。

特に演劇創作の現場だと、演出家が、目指したい方向を、考えながら喋ったり、余白も残しながら俳優とコミュニケーションすることがあります。そうなると、ニュアンスはかなり大切なので、行間とかもできるだけ伝えようとはしています。

田中:たしかに、演出家の言葉の通訳は難しいですね。それ以外だと、自分が慣れ親しんでいない領域の通訳は難しさを感じます。専門用語が多く使われていると、どう手話に落とし込んでいいのか悩んでしまうんです。自分が慣れ親しんで勉強してきた領域だと対応しやすいんですけどね。

だから通訳の仕事をはじめてから、どんな領域でもマルチに通訳できるようになるか、特定の領域を極めるか、どちらにいくか悩んだ時期もありました。結果的には自分の好きな領域を突き詰めて、そこで通訳をやりたいと思っています。

和田:通訳の現場で、相手に伝えるときにしている工夫を教えてください。

米内山:大事にしているのは、「あー」とか「うーん」とか、何かに詰まっているところまで、そのまま伝えようとすることですね。考えているときに上を向いている人がいたら、一緒に上を向いてみたり、表情が変わらない人であれば同じように表情を変えないようにしたり。冗長的な部分を省くと、意味は伝わるけど、やはり、その人の個性が伝わりづらくなってしまうので。

和田:どんなにその人らしさを伝えようとしても、私たちは、自分ではない他者になれないと思うんです。それぞれが思考や身体の海を持っている。それを受け取ること自体難しい。

だからこそ現場に入る前の事前準備もあると思うんですけど、どんな情報が事前にあるとおふたりは嬉しいですか?「年齢や職業」はヒントにはなるかもしれないけれど、それだけでは、通訳する相手のことが自分に入ってこない感じがあるかもしれないと。

米内山:できれば1週間前に居酒屋とかで飲んで「来週何話すの?」ってコミュニケーションとるのが一番いいですね。できればその人が恥じらってしまうような話とか共有して欲しい。 笑

■通訳と俳優と編集は似ている?

和田:通訳する方と自分の相性もあると思うんです。例えば、この考え方や言葉の使い方は自分を通したくないと思ってしまったときにどうしていますか。

私は、相手のこども時代を想像していくんですけど。こどもの頃にやっていた「名前のない遊び」を聞いて、自分なりにその人のことを愛せるポイントを見つけていくんです。

田中:俳優の役作りに近いことをしているかもしれません。この人の正義やポリシーって何かを考える。舞台の登場人物でもアニメのキャラクターでも悪役って出てくると思うんですけど、彼らは彼らなりの正義を持って行動を起こしている。そういう人たちを演じるときと同じように、背景を調べたり、取り込めるものは取り込んでみて、通訳をしている感覚があります。

和田:俳優と通訳って似ているのかもしれませんね。

米内山:他者を演じる行為と通訳はニアイコールだと思います。意味情報だけじゃなくて“この人らしさ”が伝わらないといけない。

メンバー原口:通訳も演じる行為も編集と呼べるのかもしれないです。相手が何を考えているか、自分に取り込もうとして、考えて出す行為は、編集だと思う。自分の身体を通して、表現としてトランスフォーメーションして出す。劇作家も、その人が触れている社会、見えている世界を、自分の身体を通して戯曲に落とし込んでいると言えるのでは。それぞれ通じる行為だけど名付け方が違うだけ。

※ここで和田が発話から手話に切り替える。和田の手話を瀧尾さんが発話で通訳。

和田:世界全体、見ているもの、例えば景色、空にある特定の雲に対して、きれいだと思うとき、それはもう一種の翻訳と言えるのかもしれない。きっと、身体言語や視覚言語、音声言語か得意なことはそれぞれ違う。手話は、その人がまだ言葉にできていないものに触れられると思うんです。

座談会の前半では、和田の使用する言語が、発話から手話に切り替わる瞬間があった。そのタイミングでは、瀧尾さんが発話で参加者に通訳する。和田の語りが本人自身の発話で共有されるとき、手話で共有されるとき、あるいは通訳者を介して手話で共有されるとき、通訳者の発話で共有されるとき、受け手側としてどのような違いがあるのかという問いが共有されていたように思った。

後半には、「言葉が得意なこと、身体や視覚が得意なことはそれぞれ違う。言葉のほうが伝わることもあるけど、手段はそれだけなのか?と思うこともある。手話のほうがまだ言葉になっていないことに触れられるのではないか」というテーマが和田より共有される。

マッサージで他者の身体を触れることの感覚について、演出家と演出助手、俳優の稽古場でのやりとりで行われる翻訳とは何か、ダンサーとして振付をインストールしたり、自分の身体を媒介にして観客にみせるときの意識の矢印の方向など、メンバーから多くの視点が寄せられた。

「私たちは何を伝え合っているのだろうか、伝えるとは何か」

その答えがこの時間で明確になったわけではない。ただ、それぞれが普段他者から何を受け取ろうとしているのか、それを共有する手段として何を選択してきたのか、そこからこぼれおちてしまうものにどう手を伸ばすのか巡る時間だったように思う。

この回の終了後、一部のメンバーで、和田が作家、南雲が映像出演で参加している企画展「トランスレーションズ展 ─『わかりあえなさ』をわかりあおう」を訪れた。トランスレーション=翻訳をテーマにした展示に触れながら、翻訳する身体と思考について考えをさらに深めていたようだった。

Text=木村和博